夕日を背に、セーヌ川を見下ろしながら、橋を渡る。ぽぽーという汽笛の音があたたかく鳴り響く。建ち並ぶビルの横に、エッフェル塔が相変わらず誇らしげに構えている。河岸では、カップルたちが思い思いにオレンジ色の時間を楽しんでいる。負けじとセーヌの川べりを堪能し、気球のあるその公園に入る。
一本の木の根元に腰をおろすと、ふと、可愛らしいテントウ虫が目についた。草を1本、よじ登っては下り、そのまた次の1本、よじ登っては下り・・・てけてけと休むことなく歩き続け、こちらにズンズン、近づいてくる。慌てて覗きこんでみたら、プチトマトの如くはじけそうな朱色の背中に、黒い水玉がのせられている。丈夫そうな足の感じなんかも、よくできていて可愛いらしい。少し迷って、かれこれ約ニ十年ぶりにテントウ虫くんを手に取ってみる。やっぱり、可愛い。怖がりもせず、てけてけと手の上を歩き続ける。指先までいったら、一瞬迷って、次は指の腹へ。
なぜ、そんなに一生懸命、あてもなく歩き続けるの
テントウ虫くんと戯れながら、自分に与えられた使命とか、今までのこと、これからのことに想いをはせる。自然について書かれた聖書の言葉が思い浮かぶ。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」
私たちは本当に、なんにも心配しなくていいんだ。ありのままの姿で そのままで―。神様の子どもとして生きればいい。自分に与えられた賜物を探りながら、造られたとおりに、生きる。形を変えようとなんてしたりせず、本来の姿で、ありのままで。
テントウ虫は蝶にはなれない。いや、ならなくたっていい。華やかな美しさはなくたって、その愛らしさが、きっと人々を癒すだろう。違っているからこそ、世界が成り立つ。
たっぷり思い巡らせて、公園を出たら、足元にまだ、テントウ虫くんがくっついていた。どうやら、お友達になったみたい。またね、とお別れして、帰路についた。シンプルだけど、ぜいたくな日曜の夕暮れ。しばらくやめられそうにない。